■子どもと教師が紡ぐ多様なアイデンティティ-カナダの小学生が語るナラティブの世界
D・ジーン・クランディニン+ジャニス・ヒューバー+アン・マリー・オア+マリリン・ヒューバー+マーニ・ピアス+ショーン・マーフィー+パム・スティーブス著
田中昌弥 訳
もし、「教育に関心があるんです」という人や、「先生になりたいんです」という人がいたら、私はこの本を勧めたい。あらかじめ断っておくと、この本は海外の教育の優れた事例や、素晴らしい教育制度について紹介する本ではない。
この本は、国や文化の違いを超えて、「ああ、学校で生きるということは、こういうことだ」と了解できるような、稀有な本である。子どもと教師が、学校という小さな社会、そしてその外にも広がる複雑な背景によって、自分のアイデンティティが揺らぎ、ほころび、たゆたう中を、なんとか紡いでいこうとするリアルなプロセスが描かれている。
例えば授業中、机の前でじっとしていることができず、椅子をよく倒し、友達とも付き合いがうまくできず隅の方にいる、注意欠陥があり学習障害を持つ男の子。そして、1年生ながらよく本を読み、サメが餌を取る方法や電気の伝わり方についての知識を人に説明したり、本からクラスメイトとのコミュニケーションの仕方を学んでいる活発な男の子。
この男の子が、実は「同一人物」だとしたら、あなたはどう思うだろうか。どちらが、本当のその子の姿なのか、と考えるだろうか。おそらく多くの人は、そうしないだろう。どちらも、同じ子についての異なる「語り」(ストーリー)であると理解するだろう。
しかし、現場ではこの異なる語りのどちらを採用するかで、その子を通常学級から移動させるか、多様性として受け容れられるかが決まってくる。この事例では、この子は注意欠陥の診断から投薬治療が始まり、学習障害児用のプログラムへと編入することになってしまった。
さらに、この男の子自身にとっても、自分自身のアイデンティティをどちらに持つか(不適応だと言われる自分か、本好きで好奇心旺盛な自分か)で、彼の人生の意味づけは大きく変わるだろう。事実、彼は学校での生活の基準を満たしている自分についてのストーリーを周囲の人に伝え、自分が学校に受け入れられる存在であることを語ろうとしていた。
この子は「こういう子」だというアイデンティティの認識から、こういう子には「この知識」や「この活動」が必要になる(だろう)という推測に基づいて、教育的な活動が計画されていく。
そう考えると、ある子について語る私たちの「ストーリー」と、その子自身が自分について語る「ストーリー」の違いが、教室の中でせめぎあいながら、互いの「アイデンティティ」を紡いでいくという生々しさが持つ意味を、看過すべきではないだろう。
教育という営みのベースには、人と人との関わりがある。人と人との関わりがあるということは、一人ひとりの学校内外での経験や体験の蓄積と文脈によって構成された、その人自身の習慣や記憶、態度のまとまりからなる多様なアイデンティティが、教育の「現場」で一堂に会するということである。
この多様なアイデンティティが一堂に会することで、子どもたちも教師たちも、自分のアイデンティティの「ゆらぎ」を体験する。自分とは何者なのかを問われるのである。教師教育も学校教育も、このアイデンティティのゆらぎを支え、いかに互いに多様なアイデンティティを紡ぎ合える場所にしていけるのかが問われている。
(Keisuke)
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